時々思うけど、桑野塾は濃いテーマ2本は勿体ない。
濃すぎて酔う感じ。
1つに絞って欲しいなあ。
敗戦直後のモスクワ放送ハバロフスク放送局日本語番組担当の女性アナウンサーのことと、「いわば、ポスト・ソヴィエト的芸術左翼戦線」←ご本人のお話だと戦線じゃなくて前線だそうで。
ここでのお話は左翼芸術のことというより芸術左翼についてだったのだけれど、さりとて凄くインパクトのある前衛芸術やってるアーティストってわけでもなかったのだけれど…。
ロシアの左翼的な動きについては赤旗とかでも酷く冷淡というか無関心なのか殆ど話題になってない(なるとしたらプッシー・ライオットとかだもん、ああいうのは嫌い。ワタリウム美術館でВойнаも全然好きになれなかった)けど、今日取り上げられたペテルブルグの、70~80年代生まれの芸術家/活動家たちのレポは面白かった。
参加者の皆さんも、何だかこういうの(ロシアの最新芸術情報、しかも反体制のもの)に飢えていたようだ。
キーパーソンはパーヴェル・アルセニエフという1986年生まれの詩人のようで、「なにをなすべきか?」で公正な選挙を求めて電車に乗り込んでパフォーマンスやったりガスプロムのタワー建設反対の「タワー」というコロス(合唱隊)仕立ての動画作ったり。
ロシアにおける芸術左翼って?(そもそも左翼って?)、反プーチンという姿を求めるかもしれないけど、というより反グローバリズム・反資本主義なんだそうで。
アルセニエフがスーパーマーケット内をカートに乗って自作の詩をトラメガで朗読して回ったりする。
彼がかなりのハンサムなので絵にはなるが、スーパーの詩の朗読のパフォーマンスは、え?これ芸術なのか?って感じも。
さりとて政治的なアジテーションかっていうと、それにはおとなしすぎるような。
アルセニエフが役者さながらにカッコいいので(現代ロシアの文学者は大体イケメン多い。アルセニエフの所業もクリョーヒンみたいだった、いや、っていうよりも「レッズ」のウォーレン・ベイティ扮するジョン・リード??)動画を観ても様になっているように見えるけど、詩を詠んでいるだけなので、周囲のリアクションは全然ない。
だって詩の朗読は日常茶飯事のロシアですからねえ。
Войнаによるスーパーでのパフォーマンスはもっと過激で迷惑千万なものだったので、ロシアでは日常茶飯に行われている自作詩朗読を街中でやる行為とアルセニエフの行為との差異はつけがたかったが、そんな緩さが好ましい感じがした。
とにかく私はВойнаにはやだな!という感覚しかない。
モスクワ系のソッツ・アートなんかとは違う。
あの、良く言えば先鋭的で、話題になってなんぼだっていう、良識とか踏み外して犯罪行為になっても構わないというやたら挑発的な潮流とは違う。
むしろ、「おかしいと思ったら声を挙げてみない?」という、当たり前の思いを、芸術的な新鮮さは何もない(彼らが親近感を持っているという「レフ」「新レフ」「アヴァンギャルド」の焼き直しか、それにすらなっていないかもしれない)ような、もう誰かが思いついてやっていたでしょっていう手法を、路上や、店内や、駅や電車の中で、実践?挙行?している。
それらを見ていて、不覚ながら、あ、これならいいかも?と思える何かがあった。
上手く説明できてないけど、あの夏に路上で肉球新党のプラカ見た時の感覚に近いものがあった。
伝説的党首のご尊顔プラカ
ショウジサダムさん作、通称ロトニャンコ
あ、なんか言ってみていいかも、という気持ちにさせる敷居の低さ。
もちろん、Что делать(何をなすべきか)なんてセンス古いですね、チェルヌィシェフスキーですか?レーニンですか?と半ば呆れるし、そもそもロシア中で話題の有名グループというわけでもない(知ってる人は知ってる、という程度の知名度)。
でも、異論派のときの、プラカ掲げるのに、飼い猫を信頼できる友人に預けて息子を実家に託し全て覚悟して広場に向かったという抗議行動のスタイルとは、やはり時代は変わったんだろうなと思う。
(モスクワ系の過激で挑発的な一派よりは緩さが目立つ彼らにしても、電車で対話をけしかけるパフォーマンスではその後郊外の駅で降りてデモをやって逮捕者出したりしているから、今の日本での市民グループやぼっちたちの抗議とは事情は違うことは想像できるけれど。)
この緩さで大丈夫なのか?と思うかもしれないけど、例えば”タワー”に関しては、そのパフォーマンスが功を奏してとばかりは言えないにしろ(世界遺産の景観が傷つくだろうとかユネスコからの懸念もあった)ガスプロムタワー建設は計画の見直しをせざるをえなくなった(中心部→郊外)わけで、ささやかなれども成果を得ることができているじゃないか、とほっとさせられる。
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