別のディスクになってしまったが、ダニス・タノヴィッチ監督の2017年公開作2本
「汚れたミルク~あるセールスマンの告発」
「サラエヴォの銃声」
別のディスクになってしまったが、ダニス・タノヴィッチ監督の2017年公開作2本
「汚れたミルク~あるセールスマンの告発」
「サラエヴォの銃声」
目黒シネマで「石炭の値打ち」を観た際に、”ポーランド暗黒SF”の映画特集があるのを知って、ただそこでは観ることがかなわず残念に思っていたら、なんと阿佐ヶ谷で上映あるじゃないか!
と、さらに有難いことに、「ソヴィエト映画特集・愛にまつわる6つの物語」と同時期。
最初は(これは本来意に反するものだったが)「ザレチナヤ通りの春」と「祝賀の夜」を観た次の時間帯で、「ゴーレム」を。
なぜ、意に反するなのかというと、多幸感の強い「ザレチナヤ」と「祝賀」でしみじみ幸せにな気分を暗黒SFでぶち壊したくなかったからなのだが、予想通りいや~な気分にしてくれる暗黒SFだった(ゴーレム)
次に「宇宙戦争・次の世紀」
これもまた期待以上に誰もが不幸せになる世界滅亡まっしぐら作品。
いいぞ、この調子だ!と昨日の「オビ・オバ 文明の終わり」と「ガガ 英雄たちに栄光あれ」で無事に4作品完走。
ロプシャンスキーっぽい世界観だね~
「死者からの手紙」では、ブィコフ老人と子どもたちの聖なる存在が際立つラストだったけど、「オビ・オバ」はひたすら醜い・・・真に迫る醜悪さ。
最後の「ガガ」はコメディー要素も強かった。
画像は母が2013年1月にAALAのツァーで訪れた時のもの。
平和の礎に名前が刻まれたこの星子鋭郎さんは祖母の従兄弟。(確か都道府県別になっているので前後の星子さんも熊本出身なのだろうが、親戚ではないとのこと。)
沖縄戦から帰ってこなかった。
一人息子を失って、お父さんはその後自ら命を絶ったという。
私が沖縄を訪れた1990年11月にはまだ平和の礎はなかった。海岸から摩文仁の丘に登る道を、宣教師のエリザベス・クラーク先生と一緒に登っていたら、主任牧師に「Kocmaさんはクラーク先生と苦楽をともにされましたね」と親父ギャグを言われ、脱力しかけた・・・
そして、その当時は、熊本の親類が沖縄で戦死をしていたということも、祖母や母からまだ聞いていなかった。
二位じゃだめなんです!優勝でもだめなんです!
相変わらず”綺羅星の如く”巨匠が途切れないイラン映画だが、これはね、当初からのイラン映画の王道、労痛き子どもがひたむきにがんばる(周囲の大人は無理解)お話で、とてもとても懐かしい。素直に感動。
妹の運動靴をなくしてしまい、ひとまずは二人で運動靴を共用することになり、男女別学、二部制なのか午前午後とかで通学時間がずれているのを利用して、一方が学校が終わったら走って待ち合わせ場所へ、そこで靴を交換し、受け取ったらダッシュして学校へ・・・を繰り返す兄妹。
元祖イランのかわいい子映画「友だちのうちはどこ?」がそうだったように、可愛い子が走る、走る、走る、懸命に走る。
マラソン大会の賞品が運動靴なので、それを獲得すべく、アリ君は走り続けるが、全然長距離走の走り方じゃない、常に全力疾走っぽい。観ていて苦しいよ。
妹のザーラが通う女の子たちの小学校、今観ると、2月末にアメリカ・イスラエルによって虐殺された少女たちが脳裏に浮かんでやはり辛い。この子たちを攻撃するなんて全く酷い連中だ。おまけにワールドカップは…。
「裏切りのサーカス」は2012年7月1日シャンテで鑑賞。
Tinker, Tailor, soldier, spy
元歌はマザーグースの
Tinker, tailor,
Soldier, sailor,
Rich man, poor man,
Beggarman, thief.
鋳掛け屋 仕立屋
兵隊 船乗り
金持ち 貧乏人
物乞い 泥棒
数え歌。将来の職業、または結婚相手の職業を占う。
カンバーバッチが出ていたのか。
「フィラデルフィア」
1992年世界に先駆けてチュルリョーニス回顧展を催したセゾン美術館はほんとうに偉大だったな。
34年前、知名度なんて殆どないままの日本初公開(というより旧ソ連圏外初公開だったのでは)にもかかわらず、早々にカタログが売り切れたという。日本人の心の琴線に触れるものがあるのだろう・・・
残念ながら、このときは観ていない。
1994年8月にリトアニアに行った時、ヴィリニュスもカウナスも、縁の土地であるにもかかわらず、少なくとも外国人向けにはチュルリョーニスを紹介しようという雰囲気ではなかった。私もチュルリョーニスの名前だけは知っていたものの、かの地で何か探求しようという気にはなっていなかった。
(杉原千畝に関して言うと、地元の関心度・知名度は決して高くなかったと思う。)
チュルリョーニスに関心を持ったのは、芸術新潮2010年10月号の特集記事『チュルリョーニスを知っていますか?』までくだるのだが、それでも15年半前になるのか。
それによると、彼はリトアニア民族主義者で、リトアニアの民謡や神話に親しんでいたものの、リトアニア語には不慣れで、ポーランド語が母語だったようだ。(文学者の妻ソフィアに翻訳を頼んでいたという。)
スライドトークで紹介された作品
①森の囁き 油彩 1904年