初めてって言うのは、全曲完全に聴いたのは、という意味でなのだが、人生最初の全曲聴いた受難曲がバッハじゃなくてディーテリッヒ・ブクステフーデであったという。
なかなかマニアック。
しかも、
・実際に礼拝堂で演奏する
・当時の演奏方法を考慮しつつ、現況に即した編成で対応
というのを、音楽大学ではない一般大学での正規の授業の一環として行う演奏会であり、さらに楽章の冒頭に聖書の関連個所の朗読もあるという、得難いものであった。
ドイツ・バロック受難音楽
ブクスフーデ«我らがイエスの御体»全曲演奏会
~慶應義塾大学コレギウム・ムジクム アカデミー声楽アンサンブル演奏会
プログラム・ノートにはびっしりと、作曲家について、当時のドイツの教会、そして受難音楽が演奏されるという社会的運動について、充実した記述がされてていて、知識ほぼゼロの私には大変ありがたかった。
(そのうえ歌詞対訳完備→歌詞については指揮者による訳であり、朗読される聖書は新共同訳なので、かなり乖離していたというのはあったけど。)
2時間たっぷり休憩なし、中には寝息をたてている方もいらっしゃいましたが、昨夜夜更かしをしたのに午前中の映画でもこの演奏会でも全然寝ないでいられたなあ。
いや、実に。
学生、しかも音大生でもない一般学生の授業の一環とは思えない(ソロと一部楽器はプロですが)、濃厚な音と空間を感じさせるものであって、これで1000円也って、とてもとても素晴らしかったと思う。
慶應ってどうしてこんな贅沢なことができているの?
マースレニッツァことカーニバルは先週で終了。
受難節の始まりに、精神的にも効いてくるような、有り難い経験だった。
以下は聖書朗読箇所のメモ
Ⅰ 御足に寄す
ナホム書2:1
ルカ7:37~38
Ⅱ 御膝に寄す
イザヤ66:12
マルコ15:12~20
Ⅲ 御手に寄す
ゼカリヤ13:6
(対訳だと「汝の掌(たなごころ)の真中なる/その御傷ぞ」だが、新共同訳だと「あなたの胸にあるこの傷」となっている)
マタイ8-1~3?
Ⅳ 御脇腹に寄す
雅歌2(13となっていたが誤植と思われる):(10~)13-14
ヨハネ福音書19:34
同 20:25
Ⅴ 御胸に寄す
Ⅰペテロ2:(1)2-3
Ⅵ 御心(心臓)に寄す
雅歌4:9
Ⅶ 御顔に寄す
詩篇31:16
Ⅱコリント
アンコール
讃美歌21の310番=讃美歌第1篇136「血しおしたたる」
2015年2月28日土曜日
2015年2月23日月曜日
クリスマスカードが届いた
うわー、嬉しいなあ。
封書を開けてみたら、サンタさんとトナカイさんの絵が出てきた。
クリスマスカードだ。
アフリカから、ジンバブウェから。
あの子が書いてくれたんだ。
(プラン・ジャパンで文通している女の子からです。)
今日はロシアでは祖国防衛の日で、私にとっては亡き祖母の誕生日、特別な日だ。
返事を書こう。
封書を開けてみたら、サンタさんとトナカイさんの絵が出てきた。
クリスマスカードだ。
アフリカから、ジンバブウェから。
あの子が書いてくれたんだ。
(プラン・ジャパンで文通している女の子からです。)
今日はロシアでは祖国防衛の日で、私にとっては亡き祖母の誕生日、特別な日だ。
返事を書こう。
2015年2月22日日曜日
読みかけ本メモ
ディアギレフのバレエ・リュスに最初から最後まで立ちあった唯一の人。ダンサー出身の舞台監督。フォーキンを通してディアギレフと知り合った。ニジンスキーには徹底して嫌われたが、冷静に、公平に記述している。
プロローグ・エピローグを加え、1909年から1929年まで一年刻みの章建てになっている。その1909年・1910年部分と100年前に当たる1914年(第一次世界大戦の始まり)・1915年部分を読んでみた。マシーンの登場場面はなかなかおもしろい。
プロローグ・エピローグを加え、1909年から1929年まで一年刻みの章建てになっている。その1909年・1910年部分と100年前に当たる1914年(第一次世界大戦の始まり)・1915年部分を読んでみた。マシーンの登場場面はなかなかおもしろい。
最後駆け足だが一応読みとおした。例の呼称が問題となっている国家僭称集団だが、パレスチナ問題無視なのは納得できませんよね?処刑方法とか全然ムスリム…どころかいかなる宗教的でもない感じなのって、最近強調されるようにはなって来たが、元々イラクのバース党員や官僚たちが中核だという(バース党は世俗主義)話を聞くと妙に合点がいく。特にレバノン・ヨルダンあたりの章をもっと丁寧に再読しようと思う。
2015年2月17日火曜日
いつまでも猫にマースレニッツァが続きはしない
明日はもう灰の水曜日だ。
受難節が始まるじゃないか。
正教のベリーキー・ポスト(大斎)は2月22日から4月11日までとのことで、今週がマースレニッツァなのだね。
というわけで、あわててブリヌィを焼きましたよ。
15枚相当の材料だったはずだが、10枚にしかならなかった。
もっと薄く焼かないといけなかったんだろうな。
「最初のブリンは~」というほどダマにはならなかったが、焼き始めのはちょっと分厚い。徐々に薄く焼けるようになる。
去年九州クラフト展で買ってきた小野寺さんの木べらがとても使いやすい!
不器用な私でも、全然焦がさずにうまく焼くことができた。
生地をもっと薄く延ばせたらなおよかったが、これでもかなり伸ばせたのは木べらのおかげだ。
さすが。
トッピングは、イクラ系はきらしていたので、サバに登場願った。
ナスとひき肉の炒め、セロリといかくんのマリネ、中華サラダ、ヴァレーニエとヨーグルト、と結構適当にそろえた。
受難節が始まるじゃないか。
正教のベリーキー・ポスト(大斎)は2月22日から4月11日までとのことで、今週がマースレニッツァなのだね。
というわけで、あわててブリヌィを焼きましたよ。
15枚相当の材料だったはずだが、10枚にしかならなかった。
もっと薄く焼かないといけなかったんだろうな。
「最初のブリンは~」というほどダマにはならなかったが、焼き始めのはちょっと分厚い。徐々に薄く焼けるようになる。
去年九州クラフト展で買ってきた小野寺さんの木べらがとても使いやすい!
不器用な私でも、全然焦がさずにうまく焼くことができた。
生地をもっと薄く延ばせたらなおよかったが、これでもかなり伸ばせたのは木べらのおかげだ。
さすが。
トッピングは、イクラ系はきらしていたので、サバに登場願った。
ナスとひき肉の炒め、セロリといかくんのマリネ、中華サラダ、ヴァレーニエとヨーグルト、と結構適当にそろえた。
セロリのマリネと中華サラダ
ヨーグルトとヴァレーニエ(リンゴ)
やまとしうるわし
これは何度も述べていることだが、私は愛国者である。
やはり神々と人物の名は難しいが。
このところロシアの猫の話題を書き連ねているが、日本の猫が一番可愛い(ま、自分の猫がってことだけど)。
犬だって和犬が一番だね(自分の飼っていた犬がってことだけど)。
リスだってサルだって、日本のが一番可愛いよ。
そうは言うものの、文学は日本の文学が一番だ、と言えるほど読んでいないのが痛い。
平安文学はある程度読んだが、近現代文学、それに上古・近世文学は高校以来ほぼご無沙汰になっている。
わけても古事記・日本書紀は手ごわい。
同僚と話した中で、古事記を読んでみたいけれど、難しいよね、という話になった。
調べてみると、田辺聖子の現代語訳があるとわかった。
さすがおせいさん。いにしえの日本の神々とオオキミらの交わりが大らかにのびのびと語られる。ただ、いかんせん登場人物(神々)の名前が難しく親しみを感じさせない。漢字でもカタカナ書きでも難しい。ロシア人の名前が難しくてロシア文学は…という話をよく聞くが、古事記の人名の難しさはその比ではない。まあ、それは慣れの問題だろう。
やはり神々と人物の名は難しいが。
2015年2月15日日曜日
図書館猫
近所の図書館から帰る途中、というか、図書館から出てすぐのところで歩いていた猫。
ここはロシアではなく、なかんずくノヴォロシイスクではないので、当該猫は図書館職員ではないようだ。
うちの子に似た、マトロスキン柄の猫である。
人慣れしていた。
ここはロシアではなく、なかんずくノヴォロシイスクではないので、当該猫は図書館職員ではないようだ。
うちの子に似た、マトロスキン柄の猫である。
人慣れしていた。
2015年2月11日水曜日
猫本・猫絵の本棚
イラン映画やがて哀しき
アスガー・ファルハディ監督の「別離」とNHKアジア・フィルム・フェスティバルで上映されたレザ・ミルキャリミ監督の「花嫁と角砂糖」、録画していたものをDVDにダビングした。
ミルキャリミ監督は去年の秋イラン大使館主催の映画会で見せていただいた「こんなに近く、こんなに遠く」も監督だったのか。
あれは人情味あふれるいい映画だったな。
ファルハディ作品のクールさとはある意味対照的だ。
このとき監督にはサインをいただいた。
そう言えば、アジア・フィルム・フェスティバルはあれきりになってしまったのだ。
ウズベキスタンのムサーコフ監督「I wish …」やヴェトナムの「ニャム」、サッカー映画「僕たちのキックオフ」とか、「アフガン零年」とか、いろいろ力作を観ることができたのだが、NHKもそういうことにお金と人を使うことはしなくなったのだ。
かなりあけすけな言葉で「上の連中はそういうことがわからない」という類のことを、司会役のNHKの人は言っていたからな。
教育テレビでの良質のアジア映画の紹介もなくなってしまったし。
アジア映画はいつでも手の届くところにあるのだと、あのころは思っていた。
話は違うが、このところイラン遠征中止情報に対して、イランとイラクを取り違えているとしか思えないような書き込みがあったりして、いろいろがっかりしている。
ミルキャリミ監督は去年の秋イラン大使館主催の映画会で見せていただいた「こんなに近く、こんなに遠く」も監督だったのか。
あれは人情味あふれるいい映画だったな。
ファルハディ作品のクールさとはある意味対照的だ。
このとき監督にはサインをいただいた。
そう言えば、アジア・フィルム・フェスティバルはあれきりになってしまったのだ。
ウズベキスタンのムサーコフ監督「I wish …」やヴェトナムの「ニャム」、サッカー映画「僕たちのキックオフ」とか、「アフガン零年」とか、いろいろ力作を観ることができたのだが、NHKもそういうことにお金と人を使うことはしなくなったのだ。
かなりあけすけな言葉で「上の連中はそういうことがわからない」という類のことを、司会役のNHKの人は言っていたからな。
教育テレビでの良質のアジア映画の紹介もなくなってしまったし。
アジア映画はいつでも手の届くところにあるのだと、あのころは思っていた。
話は違うが、このところイラン遠征中止情報に対して、イランとイラクを取り違えているとしか思えないような書き込みがあったりして、いろいろがっかりしている。
キートス!キートス!キートス!キートス!キートス!カウリスマキ
Ураааааааааааа!!!!!!!!!
母が近所のバザーから帰って来て、「レニングラードのカウボーイの何とかっていうDVDかCDが出ていた」と言うから、その会場に駆けつけた。
一つ50円で売っていた!
なので、総計250円也。
いっちばん好きな「トータル・バラライカ・ショー」、それに「パラダイスの夕暮れ」、それと短編4編収録のDisk6はなかったが、1~5までそろって一応満足。
ずっと前に放映のあった(たぶん)NHK教育テレビで)「浮き雲」と「白い花びら」はVHSからDVDに録り直していたけれど、「愛しのタチアナ」や「ラヴィ・ド・ボエーム」も手に入った。
どなたが出品されたのか、とにかくキートス!
母が近所のバザーから帰って来て、「レニングラードのカウボーイの何とかっていうDVDかCDが出ていた」と言うから、その会場に駆けつけた。
一つ50円で売っていた!
なので、総計250円也。
いっちばん好きな「トータル・バラライカ・ショー」、それに「パラダイスの夕暮れ」、それと短編4編収録のDisk6はなかったが、1~5までそろって一応満足。
ずっと前に放映のあった(たぶん)NHK教育テレビで)「浮き雲」と「白い花びら」はVHSからDVDに録り直していたけれど、「愛しのタチアナ」や「ラヴィ・ド・ボエーム」も手に入った。
どなたが出品されたのか、とにかくキートス!
2015年2月8日日曜日
パリのデパート「新バビロン」
もう15年も前になるのか。
同僚から招待券をもらって、「東京の夏」音楽祭に行った。
ホール中ほど、やや上手よりの実に良い席で、おまけにプログラム引換券まで付いていた。
(自腹でチケットを買った友人の席は1階のかなり後ろの方だった。そのことをちょっと皮肉られた。)
「映画と音楽 − 映画は音楽なしでは生きられなかった」というのがテーマで、日本の古い映画と、トラウベルク&コージンツェフの「新バビロン」の上映に、それぞれ生演奏がつくというものだった。
「爆弾花嫁」というコメディー映画は、よくわからない電子音楽がついた。
これはどうかなあというものだった。
笑うべきところでヒュ~ドロドロ系のお化け屋敷みたいな音が出ていたので、なんか変!という印象を持った。
映画そのものは面白かったと思うのに、音楽余計、そんな感じ。
そこへいくと、「新バビロン」はさすがショスタコーヴィチだった。
純粋に映画を楽しめ、音楽の違和感は全くなかった。
(生演奏は東京フィルハーモニー交響楽団であった。)
ストーリーはパリ・コンミューンの敗北というプロパガンダ映画の一種なんだけど(いろいろ突っ込みどころはあるが)、ショスタコーヴィチの音楽の効果もあって盛り上がるところは盛り上がる。
新バビロンというのはパリにあるデパートの名前ということになっている。
そしてこのデパートにはなぜか同名のキャバレーがあってお金持ちの方々が軽演劇や音楽、飲み食いに楽しんでいる、という設定。
この辺の軽いノリの音楽と、パリ・コンミューンの闘いのドンパチ型の音楽の組み合わせの妙、というか無理やり感がよい。
このコンサート後、後ろの方の席だった友人と、他にもシネクラブの知人を交え、「爆弾花嫁」に付された音楽の不自然さへの文句と、「新バビロン」のショスタコーヴィチ賞賛とでしっかり話が盛り上がったのだった。
友人は「爆弾花嫁」自体を評価していなかったが、知人と私は映画自体はおもしろかったのに音楽がね、という立場だった。ショスタコーヴィチについては3人とも完全一致。
その後、「新バビロン」は一回は観ている。
アテネ・フランセだったろうか、シネクラブだったろうか、川崎市民ミュージアムだったかな?
2回目のそのときは、もしかしたらサイレントだったかもしれない。
割と集中してストーリーと映像に注視していたから。
エキセントリック俳優工房の、今観ると、いかにも大仰な俳優たちのしぐさ(クレショフとかもそうだけど)を楽しみながら、ピョートル・ソボレフスキー演ずる政府軍兵士ジャンの情けなさ、ふがいなさにほとほと参ったものである(結局最後まで情けない男なのである)。
今日は、オーケストラ・ダスビダーニャの第22回定期演奏会で、この「新バビロン」が取り上げられた。
このショスタコーヴィチ愛好家たちによる年に一度の演奏会、さすがに映像はなく、取り上げるのも「戦争」「パリ」「ヴェルサイユ」の3曲抜粋という形だったが、久しぶりの「新バビロン」(今回の演奏会では「ニュー・バビロン」)なので、楽しみだった。
楽しみにしていたのは演奏者の方々もきっとそうだったのだろう。
映像はなかったが、その分いろいろ趣向を凝らして演劇的だった。
言ってみればオペラを演奏会方式でやるような、特にパーカッション担当が忙しく立ち働いていましたよ。
なんかポクロフスキーのモスクワシアターオペラみたいだった。
選曲からも察せられる通り、喧噪と狂乱のブルジョアのパリに焦点が当てられていて、プログラムにも「映画の底辺を流れる悲劇とか社会主義リアリズムとかは一旦お忘れいただき、(略)見せどころ満載の映画音楽で、純粋に19世紀後半のパリを満喫していただけると幸いです。」とあるように、今回の演奏においては、パリ・コンミューンの革命的、プロパガンダ的な部分はすぱっと捨象されていて、それは私としてはかなり残念なところだった。
(但し、エキセントリック俳優工房によるこの映画は元々社会主義リアリズム<<<アバンギャルドだと思う。)
オーケストラ・ダスビダーニャの本日のプログラム
1.交響詩«十月»作品131
2.映画音楽«ニュー・バビロン»作品18より抜粋「戦争」「パリ」「ヴェルサイユ」
3.交響曲第8番作品65
いずれもドミトリー・ショスタコーヴィチ
そしていずれも、冬の日に熱い熱い熱情の演奏なのだった。
来年も楽しみにしている。
同僚から招待券をもらって、「東京の夏」音楽祭に行った。
ホール中ほど、やや上手よりの実に良い席で、おまけにプログラム引換券まで付いていた。
(自腹でチケットを買った友人の席は1階のかなり後ろの方だった。そのことをちょっと皮肉られた。)
「映画と音楽 − 映画は音楽なしでは生きられなかった」というのがテーマで、日本の古い映画と、トラウベルク&コージンツェフの「新バビロン」の上映に、それぞれ生演奏がつくというものだった。
「爆弾花嫁」というコメディー映画は、よくわからない電子音楽がついた。
これはどうかなあというものだった。
笑うべきところでヒュ~ドロドロ系のお化け屋敷みたいな音が出ていたので、なんか変!という印象を持った。
映画そのものは面白かったと思うのに、音楽余計、そんな感じ。
そこへいくと、「新バビロン」はさすがショスタコーヴィチだった。
純粋に映画を楽しめ、音楽の違和感は全くなかった。
(生演奏は東京フィルハーモニー交響楽団であった。)
ストーリーはパリ・コンミューンの敗北というプロパガンダ映画の一種なんだけど(いろいろ突っ込みどころはあるが)、ショスタコーヴィチの音楽の効果もあって盛り上がるところは盛り上がる。
新バビロンというのはパリにあるデパートの名前ということになっている。
そしてこのデパートにはなぜか同名のキャバレーがあってお金持ちの方々が軽演劇や音楽、飲み食いに楽しんでいる、という設定。
この辺の軽いノリの音楽と、パリ・コンミューンの闘いのドンパチ型の音楽の組み合わせの妙、というか無理やり感がよい。
このコンサート後、後ろの方の席だった友人と、他にもシネクラブの知人を交え、「爆弾花嫁」に付された音楽の不自然さへの文句と、「新バビロン」のショスタコーヴィチ賞賛とでしっかり話が盛り上がったのだった。
友人は「爆弾花嫁」自体を評価していなかったが、知人と私は映画自体はおもしろかったのに音楽がね、という立場だった。ショスタコーヴィチについては3人とも完全一致。
その後、「新バビロン」は一回は観ている。
アテネ・フランセだったろうか、シネクラブだったろうか、川崎市民ミュージアムだったかな?
2回目のそのときは、もしかしたらサイレントだったかもしれない。
割と集中してストーリーと映像に注視していたから。
エキセントリック俳優工房の、今観ると、いかにも大仰な俳優たちのしぐさ(クレショフとかもそうだけど)を楽しみながら、ピョートル・ソボレフスキー演ずる政府軍兵士ジャンの情けなさ、ふがいなさにほとほと参ったものである(結局最後まで情けない男なのである)。
今日は、オーケストラ・ダスビダーニャの第22回定期演奏会で、この「新バビロン」が取り上げられた。
このショスタコーヴィチ愛好家たちによる年に一度の演奏会、さすがに映像はなく、取り上げるのも「戦争」「パリ」「ヴェルサイユ」の3曲抜粋という形だったが、久しぶりの「新バビロン」(今回の演奏会では「ニュー・バビロン」)なので、楽しみだった。
楽しみにしていたのは演奏者の方々もきっとそうだったのだろう。
映像はなかったが、その分いろいろ趣向を凝らして演劇的だった。
言ってみればオペラを演奏会方式でやるような、特にパーカッション担当が忙しく立ち働いていましたよ。
なんかポクロフスキーのモスクワシアターオペラみたいだった。
選曲からも察せられる通り、喧噪と狂乱のブルジョアのパリに焦点が当てられていて、プログラムにも「映画の底辺を流れる悲劇とか社会主義リアリズムとかは一旦お忘れいただき、(略)見せどころ満載の映画音楽で、純粋に19世紀後半のパリを満喫していただけると幸いです。」とあるように、今回の演奏においては、パリ・コンミューンの革命的、プロパガンダ的な部分はすぱっと捨象されていて、それは私としてはかなり残念なところだった。
(但し、エキセントリック俳優工房によるこの映画は元々社会主義リアリズム<<<アバンギャルドだと思う。)
オーケストラ・ダスビダーニャの本日のプログラム
1.交響詩«十月»作品131
2.映画音楽«ニュー・バビロン»作品18より抜粋「戦争」「パリ」「ヴェルサイユ」
3.交響曲第8番作品65
いずれもドミトリー・ショスタコーヴィチ
そしていずれも、冬の日に熱い熱い熱情の演奏なのだった。
来年も楽しみにしている。
2015年2月7日土曜日
フットボール映画祭との別れ
去年は大変だったのよ、大雪の日で。
ヨコハマ・フットボール映画祭、一日券を買って、朝から夜まで観て、会場からみなとみらい駅に帰ろうとして、あたりは大雪でちょっと方向がわからなくなりそうだった。
暗かったので少々怖くなったほど。
そんなにしてまで観たのに、固め打ちのごとく詰め込み過ぎたのか、心に残るような映画がなくて(駄作だとは思わなかったが、感動したかというとそうでもない、中途半端な印象が残った)今年の映画祭についても、作品紹介を読んでも、敢えて横浜まででかけて観る気になれなくなってしまった。
今年はヨコハマとは別に東京フットボール映画祭というのもあって、こちらの方は一つだけ観てもいいかなという作品があった(トルコの作品)のだけれど、ウェブでチケットを買おうとすると、グーグルやフェイスブックやツイッターのアカウントにログインしてある程度の情報を提供するのを承諾せよみたいな画面が現れ、なんだか不気味に思えて前売り券を購入するのを断念してしまった。
東京国際映画祭の前売り券も、店頭売りじゃなくてなんか難しい風になってしまって、毎回買うのに苦労している次第。チケットレスって結構不便なのだ。
ここ数年、行動力がぐんと限定してきたのは、やはり寄る年なみってものでしょう。
前は何でも観てやろうって気でいたのが、だんだん好みが固まって来てしまった。
サッカー映画、むしろ「シュヴァンクマイエル映画祭」での「男のゲーム」にぴんときたりしている。
最初に観たのはイメージフォーラム、といってもまだイメージフォーラムが四谷三丁目のビルの中にあった時の話。
ヨコハマ・フットボール映画祭、一日券を買って、朝から夜まで観て、会場からみなとみらい駅に帰ろうとして、あたりは大雪でちょっと方向がわからなくなりそうだった。
暗かったので少々怖くなったほど。
そんなにしてまで観たのに、固め打ちのごとく詰め込み過ぎたのか、心に残るような映画がなくて(駄作だとは思わなかったが、感動したかというとそうでもない、中途半端な印象が残った)今年の映画祭についても、作品紹介を読んでも、敢えて横浜まででかけて観る気になれなくなってしまった。
今年はヨコハマとは別に東京フットボール映画祭というのもあって、こちらの方は一つだけ観てもいいかなという作品があった(トルコの作品)のだけれど、ウェブでチケットを買おうとすると、グーグルやフェイスブックやツイッターのアカウントにログインしてある程度の情報を提供するのを承諾せよみたいな画面が現れ、なんだか不気味に思えて前売り券を購入するのを断念してしまった。
東京国際映画祭の前売り券も、店頭売りじゃなくてなんか難しい風になってしまって、毎回買うのに苦労している次第。チケットレスって結構不便なのだ。
ここ数年、行動力がぐんと限定してきたのは、やはり寄る年なみってものでしょう。
前は何でも観てやろうって気でいたのが、だんだん好みが固まって来てしまった。
サッカー映画、むしろ「シュヴァンクマイエル映画祭」での「男のゲーム」にぴんときたりしている。
最初に観たのはイメージフォーラム、といってもまだイメージフォーラムが四谷三丁目のビルの中にあった時の話。
理想のチョコレート
今日はフィンランドのパンク・バンドについてのドキュメンタリー映画「パンク・シンドローム」を観に行った。
フィンランドの音楽は好きで、と言っても一番親しみを感じるのはアキ・カウリスマキの映画に使われるような、どこか昭和っぽいと言うか演歌風の歌謡曲なのだが(歌詞は概ねさっぱりわからない)、このパンク・ミュージックはどうも品がいいとは言えない、というのは何だが、上手いのか下手なのかへたうまなのかもよくわからないが、わけもなくいい感じだ。
純粋なプロテストを歌っている人たちで、映画中で彼らの背景について丁寧に説明があるわけではなかったが、<ありの~ままで~>な感じで、自然体で生きている様子が伝わって来た。
マネージャーは大変だろうけど!!
映画の前後には、新宿と渋谷でチョコレート探索をした。
こちらは新宿高島屋のゴンチャロフの売り場。
店員さんによると、缶入りチョコが売れ筋だそうです。
こちらは渋谷ヒカリエのロシェンの売り場。
↓
フィンランドの音楽は好きで、と言っても一番親しみを感じるのはアキ・カウリスマキの映画に使われるような、どこか昭和っぽいと言うか演歌風の歌謡曲なのだが(歌詞は概ねさっぱりわからない)、このパンク・ミュージックはどうも品がいいとは言えない、というのは何だが、上手いのか下手なのかへたうまなのかもよくわからないが、わけもなくいい感じだ。
純粋なプロテストを歌っている人たちで、映画中で彼らの背景について丁寧に説明があるわけではなかったが、<ありの~ままで~>な感じで、自然体で生きている様子が伝わって来た。
マネージャーは大変だろうけど!!
映画の前後には、新宿と渋谷でチョコレート探索をした。
こちらは新宿高島屋のゴンチャロフの売り場。
店員さんによると、缶入りチョコが売れ筋だそうです。
こちらは渋谷ヒカリエのロシェンの売り場。
↓
ロシェンは、ヒカリエ8階の特設会場の中でも、ひときわ大きな一角で派手にキャンペーンを展開していました。
お兄さんが「ウクライナのチョコレートのロシェンです」と盛んに売り込みの声を挙げていました。
写真にあるような一口サイズのチョコやキャンディーの量り売りが中心で、あとバータイプのもと、それと卵型のカードを枝につるすようなコーナーもありました。
ロシェンは現ウクライナ大統領のポロシェンコの会社で、潤沢な資金があって、日本にまで売り込みをかけているっていうことなのだろうけれど、ウクライナのチョコレートが日本に進出してくるならロシェンよりハリコフチャンカの方が100万倍嬉しかったのにな~。何とも残念だ。
私がロシェンを支持しない理由、最大の要因は「可愛い」がないからである。
エレガント路線なのだ。だから可愛くはない。
第一、キリル文字なんか使ってませんのよ。(つまらん)
包んであるのもレトロな絵柄の紙ではなくて鮮やかな色彩のプラ包装。
チョコレートの包み紙の最もあらまほしき形状としては、紙+銀紙、可愛い絵柄であって、これこそ「ソ連の飴紙」展などで人々の心を掴んできたことと思われるのだが、ロシェンにはそういう風情はありませんね。
創業は1996年とのことなので、さほど歴史はないのです。
美味しいチョコ、口にあうチョコって言うなら、日本人の私は明治や森永で十分。幼いころから親しんだ味に惹かれている。
それに、(例えそれがかつての帝国主義的簒奪の成果であるとはいえ)伝統のベルギーやらオランダのブランドチョコと比較できるような味でもないし。
要するに、舶来のチョコに私が求めるのは一にも二にも可愛らしさである(包み紙が可愛らしいので絶対捨てないでいる)ので、その点においてロシェンは問題外なのです。ロシェンのは撮っておこうと思わない(というより、自分で食べないで人に譲っているのだが)。
ハリコフチャンカ、日本に来てください!!!
「赤い十月」や「クルプスカヤ」は日本で売り出す気はないのかな。
ロシア映画祭の会場とか、ロシア語学院でというのではなくて、あんな風に、堂々と、という意味です。
さて、ロシェンよりも同じ階にあるこちらの方が眼福です。
川本喜八郎人形ギャラリーですが、また展示が変わっていました。
入口のこちらだけ撮影可能です。
2015年2月4日水曜日
「ジミー、野を駆ける伝説」
ケン・ローチ作品中でもこれはほぼ完璧に好き。
希望を絶やさず、しかし夢物語ではなく、現実から逃げ出すことなく、それでも暴力肯定に陥らず。
自転車は未来と希望と若さだね。
↑
ダルデンヌ兄弟監督の(ジェレミー・レニエの、とも言えるが)「少年と自転車」もそうだった。
あと、やはり「人はパンのみに生きるにあらず」=「ブレッド・アンド・ローズ」(パンもバラも)ですよ、人生は。
希望を絶やさず、しかし夢物語ではなく、現実から逃げ出すことなく、それでも暴力肯定に陥らず。
自転車は未来と希望と若さだね。
↑
ダルデンヌ兄弟監督の(ジェレミー・レニエの、とも言えるが)「少年と自転車」もそうだった。
あと、やはり「人はパンのみに生きるにあらず」=「ブレッド・アンド・ローズ」(パンもバラも)ですよ、人生は。
2015年2月3日火曜日
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