息子がイスラエルに渡ってキブツ体験している辺り「パレスチナ人を追い払って得た土地で」と冷めた目で眺めてしまうけどな。息子の恋人?っぽい若い女性が「女性が指導する国はイスラエル以外にあるか?」とシモーヌに語り掛ける。
彼女の弁舌はさわやかで力強い。しかし人権保障を訴え外国人差別糾弾する諸々の言葉も、ガザやヨルダン川西岸で惨状が続く、ずっとずっと続く現況が露になって、この期に及んでは酷く皮肉に感じられる。だが絶望なんてしない。
実際には英雄も裏切者も傍観者もいたのがペタン時代のフランス(もしかしたら本当に無自覚で何も知らないで過ごした人もいたのかもしれないが)戦争が終わって「さも皆レジスタンスでしたよ」みたいなフランス。ユダヤ人として収容され抵抗できていなかった彼女はフィアンセ一家との談話に微妙な笑みを浮かべる。
フィアンセは強引に「元レジスタンス」の華やかな宴に連れ出すが彼女が臆するのは元収容所の民であったゆえ英雄的なレジスタンスをしたわけではないと自覚しているから。フィアンセの方は無自覚だし無神経でもある…
フランスではさも「皆レジスタンスしてました」が如くの歴史修正だが、日本ではよくよく「戦争に反対することなんてできなかった(自分はできなかった)⇒誰も戦争に反対しなかった、誰もが戦争に協力した」という認識になりがちで、正反対なのが興味深いところですね。
(こういう言説に、母は激怒したものだった。)
フランスのエリート高等教育機関を卒業しながら、夫の仕事のためにキャリアを断念してせっせと夫を支える苦節??年があった後、「勉強再開する」「弁護士になる」で大反対する夫。笑ってしまうくらいありがちな風景であった。
なお、ずっと後になって判明する、彼女の父と兄が送られ、そこで命を絶たれたであろうというリトアニア・カウナス郊外の第九要塞には、1994年8月に訪れた。
調査結果を告げる人によると、そこに着いてすぐに銃殺されていただろうとのこと。
おそらくはこの「ダスヴィダーニャの道」で。
(「ダスヴィダーニャの道」と説明したのはガイドさんで、そのときの彼女の声を今でも覚えている。皮肉なことだと思った、プラシャイ(長きのお別れ)ではなくダスヴィダーニャ(また会う時まで)を使うなんて、銃殺までの道行きなのに、と。)
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