2020年10月12日月曜日

名誉回復と補償金支払い、ロシアでさえしているのだ

 ロシア語の原題は"Былое в памяти моей"(私の記憶の中の過去)。

日本語の改題はドラマチックになりすぎている感じがしないでもない。ナギさんの人生はドラマチックではあるけれど、訳者解題にあるとおり「ナギさんは数奇な人生を送ったとも言えるし、平均的なソ連人だったとも言える。」革命記念日に生まれたこととそんなに関係はなかったな。



まず、幼年時代の日本滞在記は、子どもの目で見聞きした日本の文化についての説明が興味深かった。
また、この時代(1930年代)には外国人、とりわけソ連人であった筆者が子どもであっても日本人から酷く差別や嫌がらせを受けていたことが記されており、今さらながら申し訳ない気持ちになる。

ソ連帰国後の少年~青年期の「人民の敵」の子として、またユダヤ系としての過酷な経験の記載も日本語として読めるのは貴重。
ただ、イスラエルに対する思いは、筆者がユダヤ系である以上冷静になれないのだろうか。6日戦争(第3次中東戦争)でのイスラエル軍の行為に関して「民族の誇り」を感じ祝祭的なムードに浸っているようなのがいささか衝撃だった。
1957年のモスクワでも世界青年学生祭典のときのイスラエル代表との交流についても
「敵に囲まれた若い国家は、どうしても欠かせない真の平和を目指している。世界中にいる真の友は、イスラエルの成功と困難に心から共感しているのだ…。」(282頁)
と、とても共感できないようなことを書いてしまっている。

また、第三章「父のファイル」でスターリン体制下で粛清(銃殺)された父(ハンガリー・アヴァンギャルドの芸術家モホリ=ナジ・ラースロー~本書では「モホイ」とあるがウィキ先生によると誤読とのこと~の兄弟で、自身はロシア革命と内戦でソ連側捕虜となりその後ソ連国籍を取得しジャーナリストとなってタス通信記者として日本に赴任、帰国後外国のスパイとの容疑で逮捕された)について、スターリンの死後から雪解け期、凍てつきの時代、ペレストロイカ、ソ連解体を経てロシア共和国となって、父の記録にアクセスし、KGB,裁判所の手続きを経て名誉回復をしていく過程が記され、貴重だ。
もちろん、筆者は補償金を受け取っても政府当局の態度には満足するわけはなかった。
1956年の名誉回復証明書については、「同情、ましてや罪悪感のかけらもない。名誉回復を命ずる―さあ、名誉回復されました。満足してください。失ったものの補償金さえ払ってあげるんですから。」(といわんばかりだ。)(371頁)
1988年最高裁軍事部回答では「不当に裁かれたナギ、アレクセイ・リヴォヴィチに関してあなたとあなたのご家族を襲った悲劇の大きさに鑑み、心よりお悔やみ申し上げます」とあり、「手紙のトーンが変わるのに32年かかった」と筆者は記す。(379頁)
酷いよね、酷いよね。(けれども、ソ連~ロシアはともかくスターリン時代の粛清犠牲者に対して名誉回復をして補償金を払っているのだ。犠牲者や犠牲者の家族が納得できる形ではないにせよ…ご承知のとおり、日本は治安維持法犠牲者に対して補償をしていないし名誉回復もしないままだ。)
また、有名な人権団体「パーミャチ(記憶:よく「メモリアル」と紹介される)」の協力を得ているのかどうかは一切わからなかった。

筆者は1930年生まれでデュッセルドルフでご健在とのことだ。

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