2014年9月18日木曜日

1942年8月9日

今さっき、元クルィリヤ=ソヴェートフ選手、去年までコーチをしていたアンドレイ・グーシンさん(元ウクライナ代表)の逝去を知り、呆然としている。

でもここでは別の話題を書く。
ひのまどか著『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』を読了した。

ドミトリー・ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」のレニングラード初演を行ったレニングラード・ラジオシンフォニーの人々についてのノンフィクションだ。

交響曲第7番「レニングラード」の世界初演は1942年3月5日クイビシェフ(現サマラ)でサムイル・サモスード指揮のボリショイ劇場管弦楽団。
対ファシズムの正義の戦いを鼓舞するため、初演の模様はソ連全土、イギリスとアメリカに中継されていたが、ドイツ軍による封鎖の最中での電力不足のために、当のレニングラードでは放送されていなかった。のみならず、初演の情報さえ届いていなかった。

その後、この本の著者ひのまどかさんによれば、作曲家が最も信頼し最も演奏してもらいたがっていたエフゲニー・ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニー交響楽団が疎開先のノヴォシビルスクで7月7日に演奏した。

承知の通り、この曲は作曲家によって「故郷レニングラードに捧げ」られたものだ。
それなのに。

レニングラードでの初演は困難を極めた。
レニングラード封鎖中に餓死した市民は途方もなく多いが、疎開せずに市内に残っていた楽団員もまた多くが命を落としている。
生き延びた楽団員に、軍楽隊から戻った者、加えて生き残った町の音楽家、OB、音楽院生らを掻き集め、大編成のこの交響曲に着手する。
スコアがなかなか届かない、届いたがパート譜がなかったなどなどの困難を克服し、リハーサルを重ねて迎えた初演の日は、1942年8月9日。

ああ、この日だったのか。
この日、キエフでは、FKスタルト(ディナモ・キエフとロコモチフの選手だった者たちの混成チーム。当時彼らはパン工場で働いていた)とドイツ空挺軍のチームフラッケルフとの対戦、後の「死の試合」と呼ばれる試合が行われた。

対ファシズムの象徴ともなる二つの出来事が同じ日に行われていたのだ。
キエフと、レニングラードで。

この日はレニングラード封鎖345日目。
封鎖は未だ続き、1944年1月27日に解けるまで881日続いた。
だからこの日はまだ封鎖の日々の半ばに達していない。
が、封鎖の中で音楽を続けていることが、どれだけ市民にとっての支え、ドイツ軍にとっての脅威になったかを、この本は熱を込めて語りかける。

この日レニングラード初演をしたが、電力不足のために録音はできなかった。
だからこの日の演奏は証言者の激賞が残るのみの幻の名演となっている。

(ショスタコーヴィチは、ラジオシンフォニーからの要請にもかかわらず、結局このレニングラード初演をはじめ8月中5回の演奏の度の回にも現れず、指揮者カール・エリアスベルク宛てに慇懃な電報を送っただけだった。著者によれば、ショスタコーヴィチにとっては7月7日のムラヴィンスキー指揮のノヴォシビルスクでの演奏で一応の完結をみていたのではないか、という。)

その後、この曲はムラヴィンスキーとレニングラード・フィルとともに語られるようになり、エリアスベルクとラジオ・シンフォニーの偉業は不当に低く評価され、市の「防衛・封鎖博物館」でさえ語られないということとなった。(エリアスベルクがユダヤ系だったからだという。)

レニングラードは戦後、レニングラード攻防戦関連の博物館がたくさん作られた。
レニングラード交響曲レニングラード初演を記念する博物館「戦争博物館 しかし、ミューズは黙らなかった」は、正式名称「ショスタコーヴィチ記念第235番中学校内、民間博物館」といい、ソ連時代によくあった学校内に設けられた博物館だ。
レニングラード封鎖の間のこの街の文化と芸術を記録する博物館を作ろうという学校の教師と生徒たちのアイディアから、親や親戚、知人に呼びかけ、封鎖の時に使っていた品々を持ち寄って、この博物館は1968年3月16日に開館した。
ロシア語の諺「大砲が鳴る時、ミューズは黙る」を踏まえ、「しかしミューズは黙らなかった」と名付けた。
当時まだ健在だったショスタコーヴィチやエリアスベルク、その他のラジオ・シンフォニーのメンバーも資料や楽器や証言を寄せた。

著者のひのまどかさんはあとがきに、「この博物館を日本に招聘したいと強く願っている。」と書いている。
その願いが叶って欲しい。
また、私はこれまでレニングラードだった街に4回訪れている(レニングラードだった時は1回)が、この街が被った戦争被害をつぶさに感じられるような旅はまだしていない。
(ネヴァ川からやや引っ込んだ位置にあるイサーク寺院に残る銃弾の跡を見たりした程度だ。)
エルミタージュやエカテリーナ宮殿やカザン寺院やマリインスキーや、今やロマノフ王朝のきらびやかな遺跡を殊更に観光するのが主流だし、それにも尽きせぬ魅力があるのだけれど、レニングラード歴史博物館の『ターニャの日記』も、第35学校ターニャ記念室も、防衛・封鎖博物館も観ていない。
今度訪れる時は、圧倒的に膨大なこの街の戦争の犠牲者たちを記念する施設に立ち寄りたいと切に思う。

それに、何とか舞台化したものを観ることはできないだろうか?
80人編成のオーケストラの話なんて脚本にするのは何とも大変そうだけど。

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