2013年12月21日土曜日

やってはいけない

ロシアの児童文学者グリゴリー・オステルを迎えてのシンポジウム「こどもの文学?おとなの文学?」に行ってきた。

懐かしいクラスメイトに会えた。
ロシア関係の講演会というと、年配の人が多いものだったが、今回は学生風の若い人たちが多く、しかも児童文学だと女性中心になりがちなところ若い男性が目立った。
(良い傾向だと思う。クラスメイトは女性で、ロシア児童文学の翻訳の実績がある。)

パネリスト、というのだろうか、登場人物がオステルの他に、翻訳者の毛利公美さん、児童文学者のひこ・田中さん(知らない)、英米文学研究・翻訳家の青山南さん(知っている)、沼野充義先生とたくさんで、時間は全く足りなかった。
「こどもの文学?おとなの文学?」というテーマについて、有意義な議論が行われたとは言い難く、個々の発言をみればそれぞれ感心するものだったが、あまり深まらないで終わってしまったという印象だ。
せっかくだからオステルさんのお話をもっと聴きたかったなあ。

オステルさんの作品は、日本語に訳されたもので
『細菌ペーチカ』
『いろいろの話』
『悪い子のすすめ』
と、そこに出てくる子どもたちは優等生的でない、聞き分けのないやんちゃな像が浮かんでくる。
作者自身のことばでも、
「悪い子のすすめ(原題は「有害な助言」)なんていっても、ことさら聞き分けの悪い子どもが育って欲しいわけではない。しかし、聞き分けのいい子どもというのは聞き分けの悪い子どもよりも恐ろしい。なぜなら、聞き分けのいい子どもは聞き分けのいい大人になるから。聞き分けのいい大人ばかりが集まると・・・」(←後は推して知るべし。)
なんていうのはいやでも印象に残る。

結局オステルさんは、子どもが周囲から愛されることを信じて疑わない、あのソ連社会の«子どもには最良のものを»というキーワードが有効だった世界に生きた人なのだと、強く感じた。
ドストエフスキー文学をひくまでもなく、世の中には悲惨な子ども時代を過ごさざるを得なかった人もいるけれど、そして周囲の愛情を感じることなく育つ人もいてしまうわけだけど、それでもオステルさんは「子どもは誰しも天才」「子どもは恐ろしい存在であるが愛される存在だ」と言いきって止まない。
(私も子どもは(そして人間そのものが)愛される存在だと信じつづけている(クリスチャンなので、神様の愛は確信している)が、一方で子どもを愛さない親がいたり幸福とは言えない子ども時代を過ごす人もいる現実もおぼろげながら知っている。)
愛が見つからないような事態においては、オステルさんはどう向き合うのだろうか?ということは気になった。

会場からの質問に答える中で
★オステルОстерではなくてアスチョールОстёрが正しいのか?
→オステルОстерです。еに点々がついてしまったのは、ある作品が発行部数のとても多い雑誌に載った時に、間違ったまで。その後ウスペンスキー(チェブラーシカの原作者)が「オステルОстерが正しいのか、アスチョールОстёрが正しいのか」みたいな詩を書いて、それも結構知られてしまったので混乱している。ロシア語のウィキペディアには間違った情報が載っている。

★大人向けの文学も書きたいか。
→ダー!(実際書いている。)

★(あるロシア人から)子どものとき母が『悪い子のすすめ』を買ってくれなくて悲しい思いをした。母はどうして買ってくれなかったのでしょう?
→お母さんは『悪い子のすすめ』を誤解したのだろう。(というようなことを答えていたと思うが、ちょっとはっきりせず。)

★民話を参考にすることがあるか?
→ある。「雌狐は氷の家に住んでいた」という戯曲(ノルシュテインの「キツネとウサギ」と同系統の民話と思われる)などがそうだ。日本の民話でも「鶴の恩返し」などはよく知られている。

★自分以外の児童文学者は誰がいい?ウスペンスキー、ゲンリフ・サプギール、オレグ・グリゴリエフなどは?
→その三人はよい。ウスペンスキーは10歳ほど上だが親友と言っていよい。児童文学の書き方を学んだとは思っていないが、官僚との戦い方を学んだ。サプギールは隣人だった。家のすぐ近くでトロリーバスの中で彼が亡くなった時も駆け付けた。グリゴリエフとは2回あったことがある。

★未訳の作品の中でのお薦め、訳して欲しいものは?
→日本に来て、小学校で特別授業をしてきたので、日本の子どもたちのために書き下ろしをしたくなった。それができたらまずそれを。

★奥さんのマイヤさんはくまのぬいぐるみを作る手芸家で、ショートヘアの素敵な方でした。


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