コルチャック先生とも重なって、優しいおじいさまというイメージを持っていた。
『二つの白鳥の歌』の前半に収められたチュコフスキーの評論は、しかし児童文化に関するものではなかった。
文芸評論、マクシム・ゴーリキーに関する評論なのだが、これが優しいおじいさまどころではなく、ひどく辛辣なのだ。しかし、いちいち的を射ていて敵わないなあという感じ。
チュコフスキーは児童文化の評論だけでなく、普通の文芸評論もしていた、というより、ご本人はむしろこちらの方を本業と考えていたようだ。
それでは、カチャーノフは、あの「てぶくろ」や「手紙」や「チェブラーシカ」のロマン・カチャーノフは?
今まで思い描いていた優しいおじさま以外の顔があったのだろうか?
日本での一般公開は初という2本を含めた、没後20周年の上映があるので、ようやく観に行った。
(2日に新宿南口近くのグッズ売り場には行ってきた。)
その映画館に行く前に、ユーロスペースに寄ったので、こちらにも立ち寄った。
渋谷にもあるグッズ売り場(お店)だが、結論を述べると、新宿の方が充実している。
私の前に、カップルが一組、撮影中だった。
新宿のはエスカレーターのところだけれど、こちらは外に面しているので心置きなく撮れる。
映画館はこんな感じ。
はっきり言ってどの猫も似てはいない。
(それぞれ可愛いけどね。)
1963年の作品「こねこのミーシャ」は、今回の中で唯一台詞があって字幕付きの作品。
ハブローニナの『ロシア語を話しましょう』(旧作)にあるように、小さな家が取り壊されて大きな団地が建てられる。
いきなり家を壊してしまったが、ショベルカーおじさんは優しかった。そして作業車の面々は皆明るくソヴィエト社会建設に励んでいる。
「新居祝いには呼ばなくていいよ、どうせ行けないから、そのときには別の建築現場で働いているからね」なんて歌っている。
「チェブラーシカ」第4話に登場する、仕事をさぼる不真面目な輩はいなくて、進歩を疑わず邁進している様子(「迷子のブヌーチカ」でも、警察官がてきぱきと献身的に働いている)。
カチャーノフは、おそらく猫より犬の方が好きだったのではないかな?
「ミトン」ではさまざまな犬を描き分けているし、「チェブラーシカ」第1話ではトービクと名のる子犬がいて、彼の作品の中で犬は生き生きと個性豊かに描かれている。
猫は、というと、名前、ついていないんだよね、どの猫も。これも邦題では適当に主人公の猫をミーシャと名付けているが、名無しの捨て猫だ。
カチャーノフにとって猫はただ「猫」で、決して嫌いだったわけではないだろうが、犬ほど地位が高くないみたい。
カチャーノフ特有の細やかな抒情性という点では、原点ともいうべき作品で、ここから豊かに育てていったのだと思わせる、貴重なものだ。
あと、ショベルカー、クレーン車、ローラーなど工事現場の作業車が出てくる点でも『はたらくじどうしゃ』なんかを思い出させて私などはわくわくするのだけれど、今どきの子たちにとっては物足りないだろうか?
やっぱりカチャーノフの最高傑作は「ミトン」だ、と私には思える。
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