2014年11月9日日曜日

私たちは皆大田黒の音楽日記抄から出た

渋谷でポーランド映画祭やズヴャギンツェフのチケット、「嗤う分身」のプログラムを買って、副都心線で西早稲田駅まで行って、そこから早稲田大学に行ってみた。
高田馬場からと歩く道のりはそんなに変わらない。

早稲田では桑野塾で沼辺信一さんの「バレエ・リュス・と日本人」を聞く。
いつもながらの沼辺さんの話術と詳細な資料に魅せられた。

1914年には、ニジンスキーはバレエ・リュスを解雇され、「セゾン・ニジンスキー」というプロジェクトでロンドン公演を行った(2週間のみ)。(この後、ニジンスキーはヨーロッパでは踊っていない。)
バレエ・リュスの方はスターダンサーを失い、一度追い払ったフォーキンを何とか説き伏せて呼び戻し、レオニード・マシーンを発掘して「ヨゼフ伝説」を何とか新作として公演し(評判は悪かった。そして、このときのプログラムではまだ本名の”ミャーシン”で載せている)、オペラ「金鶏」の成功(ゴンチャロヴァの舞台・衣裳デザインが斬新だった。バレエ・リュス第2期の始まり)という、時代の分かれ目となった年だった。
そこに居合わせた日本人が、これまた途轍もなく天才だったのは幸いだった。

改めて、100年前オーケストラもオペラもバレエも何もないところからニジンスキーとバレエ・リュスを体感し、のみならずそれを自分で理解し鑑賞しえた大田黒元雄の天才性には言葉を失う。
今の日本の洋楽もバレエも全て彼が1914年ロンドンで吸収したこれらから出発していると言ってよいだろう。
今私がコンサートやバレエやオペラを楽しめ、好き勝手に書き散らすことができるのも、まったくもって彼のおかげなのだ。

沼辺さんのブログによると、大田黒元雄とプロコフィエフに関しては、どうやらまだ別の「物語」があるらしい…。



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