2011年10月22日土曜日

聖書

今日の授業で(日付は改まってしまったが)、先生が、「ロシアでロシア語の聖書が初めて刊行されたのは実は今年になってのことだ」
という趣旨のことをおっしゃられていた。

旧約聖書はヘブライ語(一部アラム語)、新約聖書はギリシャ語、それをラテン語以外の言葉に訳したのは、スラヴ語に訳した東方教会の方がローマ・カトリックの世界よりずっと早かった。
(カトリックはずっとラテン語を守っていた)

しかし、その“スラヴ語”(教会スラヴ語)は現実に日常でスラヴの人々が話す言葉、スラヴ諸語とは乖離している。
教会スラヴ語から、現実に人々が話す言葉への訳は、今までなかなかしようとしなかった、というのは、まあ何となくわかる気はする。
教会スラヴ語が、スラヴの人々にとって、全くわけのわからない言葉ではないわけだから、訳さなくても済んでしまうのだろう。

ところで、私はロシア語の聖書はだいぶ前に大学の書籍部で購入して持っている。
もちろんすらすら読めるわけではないけれど、毎年「今年の教会標語」が決まると、ロシア語では何て書いてあるかな?と調べてみたくなる。
たとえばイザヤ書6章8節「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください。」(新共同訳)は
И я сказал: вот я, пошли меня.(そこで私は言った。「ほら、私がいます、私を遣わして下さい。」)
映画で聖句が出てきた時も、確かめてみることがある。
という具合に、そこそこ使っている。

この本は、じゃあ何かと言うと、先生がおっしゃった「ロシアで出たロシア語の聖書」ではなく、1994年に聖書協会(United Bible Societies)が発行した「聖書正典のロシア語版」なのである。
つまり、東方教会の聖書ではない。
ローマ教会系の聖書のロシア語訳。

東であろうと西であろうと、聖書は神様の御言葉、なのだが、ちょっと違うようだ。
東方教会は、愛と正義に加えて、“美”をも重視し、称えるようだ。
ロシア語の聖書を買い求めた書籍部で、後日東方教会の聖書の創世記の部分を読んでいたら(もちろん日本語で)、最初の7日間で神様が光・昼・夜・陸・海・空・植物・天体その他諸々をお創りになるたびに、
「神はこれをみてよしとされた。」
と、新共同訳などではなっているのだが、東方教会のはこれらのあとに
「美しかったからである。」
という一文が付いている、ということを知って、私は愕然としたものだ。
何度も繰り返すほど、美しいことは重要なことなのだ。

神はこれをみてよしとされた。=И увидел Бог, что это хорошо.

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