チェルノモーレツ、ホームで下位チーム(しかもクリミア、今季限りでウクライナリーグを去るかも知れない)タヴリヤ相手にスコアレスドローだった!
大丈夫だろうか?
外国人選手が政情不安から一斉に離れてしまい(最近カメルーンのDFが加入したけど)、まだごたごたとしているのか。
2日後にはウクライナカップ準々決勝があるが。相手はFKテルノポリ(2部リーグ)。
さて、今日は映画美学校で雪どけ時代のソ連映画を3本観た。
この時代の映画はみずみずしい感性と抜群のカメラワークと時代の高揚感が素敵で、好きな作品が多い(特に「モスクワを歩く」は観るといつも幸せな気持ちになる)が、3本続けてみるとさすがに似た雰囲気だなあと。
観たのは
ミハイル・ロンムの「一年の九日」"Двять дней одного года"
ゲオルギー・ダネリヤの「モスクワを歩く」"Я шагаю по Москве"
ミハイル・カリクの「愛する」"Любить"
チラシによれば、この作品は「四人の新進作家たちの短篇を原作とし」とあるが、それは
・Ион Друцэ
モルドヴァ生まれなので、ミルチャという農村の青年が干草を積んだ馬車で帰宅途中で若い女性を拾って、という最後の話の作者だろう。1928年生まれ、85歳で存命。
・Авенир Зак
ウクライナ生まれ。1919年-1974年。54歳と短命だった。
・Исай Кузнецов
1916年ペトログラード生まれ、2010年モスクワ没。93歳だった。ユダヤ系。
・Юрий Казаков
1927年-1982年(55歳)
"Осень в бубовых лесах"
ホテルが満室でモスクワを歩き回る話?←モスクワを歩き回るところが「モスクワを歩く」を彷彿とさせる。
吹雪の日に泣いている車掌さんに声をかける話は、「私は二十歳」の市電の車掌に恋するエピソードに似ていた。
ミハイル・ナウモヴィチ・カリクは1927年アルハンゲリスク生まれ。
51年大学在学中に冤罪(スターリン暗殺を企てた容疑)で逮捕、54年まで収容所、その後復学し、「愛する」までに5本の作品を監督。が、この作品が上映禁止になり(68年)、71年にイスラエル移住。現在もイスラエル在住(87歳)。
全ソ映画大学時代の師匠はグリゴリー・アレクサンドロフとセルゲイ・ユトケーヴィチ。
「さよなら、少年たち」(64年)が検閲に引っ掛かった時には「誓いの休暇」のチュフライが口添えしたりして何とか公開にこぎつけたとのことだ。
「愛する」についていえば、今の感覚だと「なぜこれが公開禁止?」だけれど、一見してその理由が当てられるようになると、ロシア・ソ連映画好きとしても合格に域に達したことになるだろうか?
この作品に関しては
・聖書の雅歌からの引用がある(シナリオ段階で削除を指示される→雅歌からの引用と明示しない形をとる)
・聖職者のアレクサンドル・メーニ司祭?司教?(当時のロシア正教会のトップ)のインタビューが長々と使われている
・一般人のインタビューでも、「健全なソヴィエト市民」らしからぬ箇所がある
という点がいけなかったらしい。
明日に向けての復習と予習でした。
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