2014年3月29日土曜日

作家と法学 その1ボフミル・フラバル

手帳の3月29日の欄に「13:00立教7101」とメモしてある。
えーと、立教で何があるんだ?

立教か。
模試で行ったことがあるが、それ以来かな?

蔦のからまる学舎


桜と木蓮が咲く中庭。美しい!



さすがに謎のまま池袋に向かったわけではなく、調べてから行った。

これです。
Hommage à Bohumil Hrabal
ボフミル・フラバル生誕百周年記念シンポジウム
チラシに映っている写真はフラバル記念ビールか?
 
7101号教室

主に第Ⅰ部の映画を目当てだった。
«Postřižiny»「剃髪式」イジー・メンツル監督1980年チェコスロヴァキア
フラバル原作メンツル監督の映画は「つながれたヒバリ」(『私がもう住みたくない家の広告』)、「厳重に監視された列車」、「英国王給仕人に乾杯!」(『わたしは英国王に給仕した』)が既に日本でも紹介されている。
メンツルの代表作「スイート・スイート・ビレッジ」(これはフラバル原作ではないのだが)にも似たノスタルジックなコメディーだ。いい映画だ。
惜しむらくは、メンツルの他の映画とも共通するが、女性の描き方がちょっとねえ。

で、いろいろ忙しい我が身であるので、ここでとっとと帰ればよかったのだが

 
第二部の講演とディスカッションも聴いてしまい、 終わったら日が暮れていた。

ライトアップしているのは桜の時期だから、というわけでもないのか。
 
講演はマルケータ・ゲブハルトヴァー先生(東京外語大)「ピプシィから見たフラバル、フラバルから見たピプシィ」
ピクシィというのはフラバルの妻エリシュカの通称とのこと。
フラバルには妻の視点でフラバルを描いた三部作『家での結婚式』『新生』『割れ目』があり、これらの作品の一部分の朗読も含めながらのチェコ語の講演だったのだが、難解だった。
それ以上にディスカッションはあまりおもしろくななく、映画に感動した時点で帰っていればよかったと少々後悔することに。
チェコの他の作家、特にクンデラとの比較が多かったが、どうもしっくりこない。
 
しかし、帰りの電車の中で年譜(阿部賢一先生作成)を眺めていて、阿部先生だったと思うがディスカッションの中で「フラバルは母親の希望で大学では法学部に入ったと言われているが、あるインタビューでは法律の条項の文章の厳密さに惹かれたからだと答えている」「カフカとは作風がだいぶ違うが彼には敬意を払っていて、«あのカフカも私も同じ法学博士なんだ»と言っていた。」という情報をちらりと述べていた。
フラバルがカレル大学の法学部に入学したのは1935年21歳のとき。
途中ナチス・ドイツのチェコ保護領化で大学が閉鎖され、1945年再入学、1946年法学博士となる。
しかし、その後法律関係の仕事には就かず、カフカのように宮仕えをするわけでもなく、なぜかガテン系の職業に向かう。

今日観た「剃髪式」は母と養父をモデルにペピンおじさんも交え、フラバルの前の世代を描いている。
駅員としての経験は『厳重に監視された列車』に、古紙回収所での仕事は『あまりにも騒がしい孤独』に、ドイツ系の配偶者を得たことは『わたしは英国王を給仕した』に、と、フラバルの来し方は作品に結構反映しているようだから、大学時代の勉学にしても体験にしてもきっと作品にそしてその後に人生に影響を与えているのではないかと思われるが、フラバルは法学部で何を学んだのだろうか?
博士論文にはどんなことが書かれているのだろう?刑事か民事か、カフカみたいに労働法関係だったかどうか、知りたくなった。
(カフカの場合、労働基準監督官になって労働災害に関しての立派なレポートを残していると言う話だ。)
まあ、学部の数が今よりずっと少ない当時のことだから、母親に言われるまま「とりあえず法学部にでも入っておくか」という程度の心構えだった可能性も大きいのだが。
ちなみにチャイコフスキーも法学部出身だ。

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