2010年10月30日土曜日

せつない

セルゲイ・ドヴラートフやアレクサンドル・グリーン、あるいは歌手のヴィクトル・ツォイといったロシアの文化の風を、沼野充義先生のご著書・訳書を通じて、知ることとなった。
沼野先生は、そんなロシア(レムなんかのことを考えるとスラヴ)文化の水先案内人だったのです。

沼野先生がチェーホフの短編の新訳を上梓されたと知り、「沼野先生がチェーホフ?!」と感じました。
もっと直截に書くと、「えー、沼野先生、チェーホフ訳すよりも、他にやることやってよー」という感覚です。

チェーホフを訳せる人は他にもいらっしゃる。
しかも皆それぞれ熱心に研究されていて、すばらしい訳をされている。
沼野先生は、既訳のある大家の作品ではなくて、鋭い嗅覚で「こんないいものがあるんだよ」と、私たちの目の前に提示してくださる、そういうお仕事を続けてほしい。
そんな風に思ったのです。

ともあれ、集英社『新訳 チェーホフ短篇集』を読みました。

・・・・・・・・・・・。
すごくがっかり。
やっぱり沼野先生には既訳のない<掘り出し物>紹介に専念していただきたかったな。

沼野先生はチェーホフがお好きだったと書かれているけれど、このタイミングでチェーホフの新訳を出されたのは、
・亀山郁夫先生のカラマーゾフが大ヒットした
・『1Q84』でチェーホフが取り上げられている
という、ここらでチェーホフの新訳を世に出したら当たるんじゃないかと、目論まれたのでは?

訳文が、とても亀山先生的なのですよね。
『いたずら』で、ナージャをナッちゃんとしている箇所とか、かなり違和感持ちます。
それで読みやすくなるのだろうか??
(私の感覚はきっとかなりコンサバなのだろうけど。)

かと思うと、『ジーノチカ』で語り手が母親のことを「ママン」と言っている(大人の男性が他人に向かって語っているときに自分の母親を「ママン」と言うのを、私は聞いたことがないので、ものすごく不自然な、<おふらんす>な印象を受ける)。

訳語を工夫された(沼野先生は否定されているが、<奇をてらった>)部分と、あまり丁寧でなく訳し飛ばした部分の、落差が目立つ。

そんな印象を持ちました。
なんだかせつないなあ。
沼野先生、今までファンだっただけに。

解説の部分はまあまあでした。
が、それも心の琴線に触れる箇所はこれまでよりずっと少なかったように思います。

アントン・チェーホフ著沼野充義訳『新訳チェーホフ短篇集』

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