『アラーの神にもいわれはない』
続編は邦訳なし。
このたび、『サッカーと独裁者』を読もうとして、思い出したのは上記の本だった。
いたたまれない気持ち。
それ以上に、思い出し、しかし引っかかる思いを実は思い出したくない、と逡巡してしまうのは、西アフリカ出身者のたっと一人の知り合いのこと。
現在どうしているのかわからない。
知るのが怖い。
『アラーの神にもいわれはない』を読んで、無事でいてよと思ったものの、その期待が叶えられているものなのか充分に確信ができなかったから。
彼は日本のキリスト教系の各種学校に留学していた。
そして帰国した。
帰国した後、日本で知り合った人たちに、彼の故郷で漁業を行うのに必要な(と彼は説明していた)舟に付けるモーターを援助して欲しいと言ってきたという。
私も含め、極めてお人よしの教会の人たち(主に学生・若者)は、皆に呼びかければそれくらいのお金は集められるのでは、と簡単に考えて、寄付をした。
果たしてお金は集まり、青年会の中心人物が務める会社の製品を選んで彼の村に届けることもできた。
こちらも私のような全くのお人よしばかりだったわけではなく、きちんと報告をするようにと言い含めるのを会の中心人物たちは忘れなかった。
集めたお金の行方は、日本側の方はきちんと行われていた。
でも、案の定といいましょうか、こちらがせっかく送ったモーターだが、「壊れたので、新しいのをちょうだい」みたいなことを彼は言ってきたのです。
(私はそれでもまだ疑っていなかったが)、基金をつくった呼びかけ人の人たちは苦笑しつつ、この調子だと次々要求してくるだろうと察して、ほぼ自腹でかの地に自分たち自身で送り届け、且つ彼の村を実際に観に行ってきた。
その報告会もしてくれた。
それによれば、彼は村で元気にしていた。
(日本人がわざわざ訪ねてきたというと、村の男性たちは総出で“歓迎”と“接待”にあたり、通常の労働をしているのは女性たちばかりだったそうだが。)
その後、かの土地に関しては悪いニュースばかり耳に入るようになった。
果てしない内戦。
『アラーの神にも言われはない』を読むと、屈託ない彼の笑顔が思い出されて、無事でいてくれと祈るばかり。
でも実際祈るばかりだった。
今回、コートジヴォワールの箇所を読んで、確かにドログバやヤヤ・トゥーレは偉大だけれど、ちっとも偉大ではない、どちらかというと限りなくいい加減な彼に、ただ生きていてほしい、それがわかったらなあ、と目頭が熱くなってしまうのだった。
いい加減でもいいから、平和に生きていてほしい。
それだけ。
(書きかけ)
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