たっぷり飲み、しこたま食らい、せんど他人(ひと)の悪口を言うたあげく、
わし、ロドス生まれのティモクレオン、ここに眠る
ロードス島生まれの詩人ティモクレオンの墓碑銘である。
シモニデス作と言われる。
レニングラード・カウボーイズの「ジンギスカン」に通じるところがある。
「飲めや 食えや 歌えや 踊れや」
「飲めや 食えや 歌えや 騒げや」
ある意味、羨ましい限り。
そんな風に誰もが生きていけたらね。
ただ私は、他人の悪口は、言うのは勿論、聞くのも大嫌いだ。
そんなことは私のいないところで言ってくれ!である。
悪口というより陰口になるのか、その場にいない同僚に関して、嬉々として話している職場の後輩は、私のいないところではおそらく私のことも言っているのだろう。
そういうのではない人生を歩んだ方がいいのだが。
悪口を言うのが好きな人というのは存在するのかもしれない。
そうは考えたくないが。
今の私のこの状況では、自分の心構え次第で他人の悪口を言うことはなんとか回避し得る、たぶん。
粛清のソ連とか文革の中国とかレッド・パージのアメリカとか、密告を強いられる状況下にあったら、私みたいな人間が生き延びられたとはとても思えない。
すごく卑怯な真似をしたかもしれない。
そんなことない、と言いたいが、言えない。
それについての書籍を少しでも読むと、その凄まじさの前に何も言えなくなる。
ソフィ・オクサネンの『粛清』は、数年前から邦訳を待っていた。
かつてのダルデンヌ兄弟監督作品のタイトルのように、至極シンプルな題名ゆえに、その時代に吹き荒れた粛清の暴風雨が書き込まれているのだろうかと警戒していた。
作者は、その風貌から「北欧文学のレディ・ガガ」みたいな評を得ているという。
が、この作品が現代ロシア文学と非常に親和性のあるものだったことに驚いた。
北欧文学、フィンランド文学、いずれにしろ、殆ど読んだことはない。
10年くらい前にヨハンナ・シニサロの『天使は森に消えた』を読んで以来じゃないか。
(『天使は森に消えた』は後味が悪かった。)
フィンランド文学を読んだことがないに等しいので断言はできないが、オクサネンの文学的な源泉は、フィンランドというよりも、どうも母方のエストニア、ないしソ連にいきつくようだ。
(但し、エストニア文学の長老格の詩人からは「さっぱり理解できない」などと言われている。)
ヒロインの一人、アリーダの生き様は、有名な民族ジョーク“無人島に女性一人と男性二人が流れ着き”のロシア人バージョンを容易に思い起こさせ、数日前のブログに書いたが、ナタリヤ・バランスカヤの短編『ライネの家』に似通っている。
読んでいる最中に「どうもあれ(『ライネの家』)に似ている」と感じていたが、読み終わるまでそうだった。
粛清の苛烈さの告発の本ではない。
歴史の荒波にのまれた不幸な女性の静かで激しい心の遍歴だ。
訳者は英米文学翻訳の人で、英訳版からの重訳だと思われる。
ロシア人の愛称の表記が「カチャ」「パシャ」「サシャ」となっていて、少々居心地が悪い思いがした。
間違いではない。
ただ、「カーチャ」とか「パーシャ」とかの方が耳に馴染むというか、元の名前(エカテリーナやパーヴェル等)をイメージしやすいというだけの話だ。
でも「パシャ」っていうと、オスマン・トルコみたいだし。
東京メトロの駅近くで試供品をばらまいている柑橘系オーデコロンみたいでもあるし。
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