2012年10月14日日曜日

タンポポを二輪摘んで

職場で上司から「去年あなたが読んでいた分厚い本、あれは何だったでしょうか?」と尋ねられて、去年私が読んでいた分厚い本を思い出せる限りリストアップし、自分で持っている『モスクワの孤独』を「これは特によかったです」と推した。
実際特によいと思ったので買って、気になる箇所を何度も頁を繰っていた。
それを話の流れで、上司に貸すということになった。

そのお返しということだろうか。
今度は上司が「このまえみすず書房から出た本がすばらしい」と教えてくださった。
具体的な書名は覚えていないとのことだったのだが、みすずの新刊コーナーをみて、たぶんこれ、と思って図書館から借りてきた。

分厚くてずしんずしんとくる『モスクワの孤独』もよいが、読んで難しいことはないこの本も、米原万里風に言えば「打ちのめされるようなすごい本」だった。

『そこに僕らは居合わせた 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶』

惜しむらくはタイトルがリヒターの『ぼくたちもそこにいた』と被ること。
リヒターのは主人公が少年なので違和感はないが、こちらの著者はグードルン・パオゼヴァングという女性作家で、ナチス支配下で普通の少年少女を巡る20編の短編集である本作品のタイトルをことさら«僕ら»と男性限定の印象を与えるようなものにしたのはどうかと思う。
普通に「わたしたち」でよかったのでは、と。
少年が話し手として初めて登場するのは第6話の「追い込み猟」だ。
どれもパオゼヴァングが実際に見聞きした話(自分自身の体験も勿論含まれる)というが、

1.スープはまだあたたかった
2.潔白証明書

あたりは、幼い頃には尊敬していた自分の両親が、ナチス支配下のドイツにあって、卑小でいやらしくて愚かしく振舞っていたことがストレートに綴られ、かなりいやーな感じになる。
しかし、記憶すべきいやーな感じである。

10.会話

もその系統の話。

とはいえ、

4.賢母十字勲章

のユーモラスな雰囲気にちょこっと救われたような気分になる(描かれている事象には酷い現実があるのだが)。

3.9月の晴れた日
音楽の先生が検挙前後で変わってしまった。
この先生は「共産主義者」であったらしい。

7.おとぎ話の時間
8.価値のある人とそうでない人

は作者自身の体験。
ここで作者は、「スケールの大きい計画」を立てるのが得意なのは北方人種で、東方人種は適していないと教科書にかかれていたけれども百科事典や書物や人々の話によると、スラヴ系には「作曲家、有名演奏家、作家、ダンサー、学者、政治家など」「スケールの大きな計画」を実行した人々がたくさんいたことを知る。
そういう体験があるせいか、ロシア人・チェコ人らに対するまなざしは概して優しい。

12 すっかり忘れていた

では、教え込まれていた「ロシア人」像が体験や読書によって修正されていくさまが描かれている。
馬車を御していた若いロシア兵が、いきなり馬車を止め、したことといったら、牧場に咲いていたタンポポの花を二輪摘んで、一つを馬の額の皮紐の下に、もう一つを自分の耳に引っ掛けた、というもの。そして彼は朗々と歌いながら去って行く。「ロシア人は声がいいので有名」なのに、話し手の親はそれを話し手に教えていなかった。

一方、ズデーテンやシレジアのチェコ人・ポーランド人へはロシア人に対するものよりいくらか«上から目線»だったりする。

17 守護天使

では、追放され強制移住させられたドイツ人とその孫がかつて住んでいた村に58年ぶりに行ってみるのだが、祖父母は現在はチェコになっているその土地の様子が最初のうちは何を見ても気に入らず「ここはすっかりだめになった」「わしらが残っていたらこうはならなかった」と文句を言いどおし。が、現に住んでいるチェコ人親子と会話を交わすうちに彼らは理解する。たぶん、彼らとも過去とも和解することができたのだ。

田舎町でのマイノリティー弾圧の様子を描く作品もいくつかある。

8 スカーフ
14 アメリカからの客
15 どこにでもある村

最初、「ここは田舎だからユダヤ人弾圧はなかった」と村人は語るのだが・・・。

悪意と善意、勇気と卑屈、理解と無理解は紙一重なのだ。
ヴァイツゼッカーの名演説『荒れ野の40年』にある言葉を思い起こす。

 
 この犯罪に手を染めたのは少数です。公の目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった苦難を嘗めなければならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。

その、「見聞きしたこと」が、この本に書かれているのだ。

 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでいようと努めていたのであります。

 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。
 戦いが終り、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 

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