『人生と運命 2』
ワシーリー・グロスマン著齋藤紘一訳みすず書房
320頁~引用
あった、あったのである。さまざまなことがあった。自分は友人たちが無実であると確信していながら、きちんとは弁護しなかった。ときには沈黙し、ムニャムニャわけの分からないことを言った。(略)自分は一度も友人を中傷しなかった。一度も誰かについてデマを飛ばさなかった。密告書や告発書など書かなかった……(略)
しかし、なぜ弾圧された同志たちの家族と関係を断ったのか。彼らのところに行くのも、電話をするのもやめたのである。しかし、それでも弾圧された友人の親族に通りで会えば挨拶もした。道の反対側に移ったりは一度もしなかった。
一方、こんな人たちもいる。ふつうそれは、老婆、家庭の主婦、非党員の女性小市民などなのだが、彼女たちの手を通じてラーゲリに小包が送られたり、彼女らの住所宛でラーゲリから手紙が来たりする。そして、なぜか彼女らは恐れないのである。ときおりこうした老婆たち―家事手伝い、宗教的因習を守る者、読み書きのできない乳母―は、父親と母親が逮捕されて残された孤児を引きとり、一時的収容施設と孤児院での生活から子どもたちを救っている。一方、党員たちはこうした孤児を極度に恐れている。いったいこうした高齢の女性小市民、おばさん、読み書きのできない乳母たちは、ボリシェヴィキ・レーニン主義者たち、モストフスコイやこの私に比べて、より誠実でより勇気があるのだろうか。
この独白をしているニコライ・クルイモフは元コミンテルン職員の、大隊コミサール。モストフスコイは国際派古参ボリシェヴィキで、ドイツの捕虜収容所で収容されている。
この大河小説(邦訳は分厚い3分冊だが、それも『正義の事業のために』との2部作を構成し、その後編にあたる)には、無論非常に多くの人たちが登場し、実在の軍人・政治家もいるが、大半は無名の“普通の”人々だ。
主要人物の一人であるヴィクトル・シュトルームという物理学者には、レフ・ランダウが投影されているという。
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